Nichts kommt ohne Interesse zustande. - Georg Wilhelm Friedrich Hegel
興味がないところには、何事も実現しない。
人は、自分が心からやりたいことに対しては、自然と興味が湧き、夢中になって取り組むものです。一方で、「やらなければいけない」と義務を感じてしまうと、そこには大切な熱意が欠けてしまいます。
ここでもう一つ、元陸上選手の為末大さんの言葉を紹介します。
「努力は夢中の副産物」
「義務は無邪気には勝てず、努力は夢中に勝てない」
「つらい練習をすれば安心と満足感は約束される。楽な練習は、『これでいいのか』と不安になる。目的を達成するための手段としての辛さが、時に目的にすり替わってしまう。」
(『走る哲学』)
何かを成し遂げるために努力は不可欠だと思います。しかし、努力すること自体が目的になってはいけない。成し遂げたいことやその目的が、自分が心から望むものであれば、自然と夢中になります。このとき人は、自分がしていることを“努力”とはとらえてはいません。目的のために必要な努力を、“義務”と捉えてしまうと、心の赴くままに、“無邪気”に取り組む人には決して勝つことができません。
スポーツにおいていえば、自分を追い込むようなきつい練習をこなせば、「これだけやったんだ」という満足感を得られる。身体的にも精神的にもそこまで負荷のかからない楽な練習のあとには、「こんな練習で成長できるのか」という不安に襲われる。これは、スポーツ経験のある人なら誰でも抱いたことのある感情なのではないでしょうか。
僕自身、サッカー部に所属していた中学・高校時代、つい練習で手を抜いてしまったことがありました。そんな日は、身体的疲労はもちろんいつもより軽いのですが、「このままでレギュラーの座を取れるはずがない」、「次の大会で勝てるのか」と後悔を抱えて帰路についた記憶があります。次の日には心を切り替えて、いつにもまして集中して練習に望みました。すると、体力を使い果たして、身体はとても疲れるのですが、満足感に包まれます。
為末さんが言わんとしているのは、この満足感を得るためだけに辛い練習をするわけではないということです。辛い練習の先にある、自分自身の成長が本来の目的であるのにかかわらず、練習をすること自体が目的にすり替わってしまう。
為末さんが自身の陸上選手としての経験から述べていることは、さまざまな分野でも当てはまります。
本来の目的を見失わずに、無邪気に、夢中で取り組むこと。これを続けていると、いつの間にか自分でも全く想像していなかったほど遠くへ辿りつけるのだと思います。
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